このページでは、ふるさと耕野の文化財・神社・仏閣・遺跡・歴史的な事を紹介したいと思います。(資料:丸森町教育委員会発刊「丸森町の文化財」)
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歴史

     『馬上拾壱騎槍鉄砲百五十人組』

 慶長5年(1600年)7月、伊達政宗は上杉氏所領の白石城(城主甘糟備後、当時留守の登坂式部ら)を攻略した。この戦いに伊達勢は、近辺の土豪たちに加勢を求めた。これに応じたのが、耕野・大蔵・川張3ヶ村の馬上拾壱騎槍鉄砲百五十人の者共である。
 この馬上拾壱騎槍鉄砲百五十人の者共は、白石城攻めに抜群の働きをし、さらに、大坊木、大巻など伊達領境を固めるための番所屋敷を提供するなど藩のために尽くしたといわれる。
 その功により3ヶ村は藩の蔵入地(直轄地)とし、年貢や賦役についても優遇されることとなった。
 寛永6年(1629年)蔵入地が変更され、他の者の御割地となることになった際、これに反対した3ヶ村の者共、八島下野を主立にして直訴、それが認められて元通りの蔵入地とされた。
 3ヶ村の者共、その礼として、毎年藩主に白石鼻紙5800帖を永代献納することを約した。(幕末まで続いた。)
 このこと以来、馬上拾壱騎槍鉄砲百五十人の者共は、有事に際し、いつでも出陣できる態勢を取っていたようである。
 この者共の拠点が耕野の小屋下館、小坂館、大張の前田館、遠倉館であったようである。
 3ヶ村の者共は、馬上拾壱騎槍鉄砲百五十人の組の者であることを極めて誇りとしていたようであり、後年(安永及びその後)書上のあった代数有之御百姓、品替御百姓のほとんどが、この馬上拾壱騎槍鉄砲百五十人の者共で、しかも5代、6代あるいはそれ以上相続している者であったようである。
 幕末戊辰の役に際しては、この者共が、狙撃隊(469人)を組織し、藩の要請によって出陣、藩境の警備に当たった。
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史跡

    
『沼の上番所跡』

阿武隈川の水運が盛んになるに従い、運行の安全や犯罪の防止、取締りなどのために、御番所(水番所)がこの地に設けられた。対岸(丸森側)の「水沢御番所」とともに、藩の役人が詰めていたほか、桑折御陣屋や船蔵が造られるなど、舟運の重要な拠点であった。
               
    
『猿跳岩』

 兜渡(最近まで渡舟場であった)の上流、阿武隈川が岩床を縫って激しく流れる所に、通称猿跳岩がある。往古さるが群れをなして、この岩伝いに川を渡ったと伝えられている。福島から流れる随一の激流で、かつて藩政のころ、信達地方の天領の貢米を舟で運ぶ目的で河村瑞賢、渡辺友意ら、水路を開くために、この地を改修したと記録されている。
 それにしても、小舟での運行は困難を窮め、特に遡行の際は随所に設けた網かけ岩と称する岩を利用したが、今もなお網をかけた跡を残している。                
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神社・仏閣

    
情報No.T-2 写真 『春日神社』

元弘年間(1330年ころ)北畠顕家の臣高橋判官の勧請したものといわれる。境内に沼の上碑(延享4年・1747年)があり、この付近は藩政時代、阿武隈川舟運の船番所があったところである。
    
『耕龍山桃泉寺(曹洞宗)』

元弘年中(1330年ころ)天台宗として開山されたが廃寺となり、弘治3年(1557年)越後国村上耕雲寺17世三心宗恵和尚が曹洞宗寺として再興したと伝えられる。平成13年(2001年)本堂が建て替えられた。境内に薬師堂がある。
               
    
情報No.T-2 写真 『千珠院正観世音』

伊具33観世音第5番、参道近くにたたずむ小宇である。境内に蚕神をまつるほか、大小様々な庚申百体お堂を囲み見事である。講中あり、祭日毎年八十八夜。
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